南極物語

053.jpg 日本が国際地球観測年を機に、南極観測に参加することが決定されたのは昭和30年(1955)のことです。当時は、サンフランシスコ講和条約調印のわずか4年後のことで、日本には国際的な地位などないに等しい状態でした。ですから国際会議で日本が、南極観測に参加したいと申し出ても、第2次世界大戦で日本に恨みをもつオーストラリア等が猛烈に反発し、「日本にはまだ国際社会に復帰する資格などない」という大変激しい態度が表明されました。日本から代表として会議に参加していた永田氏は(後に南極観測隊の隊長となる)、「100人近い出席者は自分以外がすべて白人でしかも戦勝国の国民だった。その心の衝撃は今でも忘れられない」と語っています。しかし、会議場から一歩でるとアメリカもソ連の代表も激励してくれ、会議場でのかけひきのテクニックまで忠告してくれたといいます。こうした、陰での援助もありようやく日本が参加できることが決定し、戦後意気喪失していた日本は、国際的な規模で行われる一大事業に参加するという明るい二ユースに湧きました。 

 さて、南極観測に参加するにあたっていよいよ観測隊が結成されることとなりました。その中で学術関係者は着々と決定していきましたが、もう一つの重要な仕事、すなわち基地設営の責任者を決めなければならなくなっていました。この役には、子供の頃、白瀬中尉の南極探検の報告会に出席し、その時見た真っ白な氷の世界に憧れてきたという登山家であり一人のエンジニアでもある、西堀栄三郎氏に白羽の矢が立てられました。余談ではありますが、彼はあの有名な“雪よ岩よわれらがやどり”の「雪山讃歌」の作者でもあります。そして、この西堀氏が南極に行くことを決意した時から構想を持っていた輸送手段が航空機と犬だったのです。南極地探検に犬ぞりが必要不可欠なものであったことは、歴史の教えるところであり、ピアリーの北極初到達、アムンゼンの南極初到達にもやはり犬ぞりが使用されていました。犬ぞりの必要性を何とか関係者に説き伏せ、犬ぞり隊が編成されることが決定したのが昭和31年(1956)1月のことでした。その時点で、11月の出発までもう残すところ10ケ月足らずです。優れた犬を探し出し、雪が消えないうちに、一日でも早く訓練を始めなければなりません。しかし、ここで一つの問題が持ち上がりました。それは、犬ぞりをひかせる犬は何を使うかということです。 外国が使っていたソリ犬はハスキーかサモエドに限られており、シベリアやアラスカ等に行くと、訓練された犬が一組になって売られていることもわかりました。だが、「日本には樺太犬という立派な犬がいるではないか。ひとつ世界にその素晴らしさを見せてやろう」という意気込みから、結局、犬ぞりには樺太犬が選ばれることとなり、西堀氏はすぐさま北海道へと飛び、犬集めがはじまりました。 
樺太犬は、体力があり、粗食と寒さに耐え、指の間に密生して毛があるなど、特に雪の上での労働に適した特徴を持っています。苦労した甲斐があり、少しずつ犬達が集まりはじめ、中には無償で提供を申し出てくる人もありました(当時の金額で1頭3千円から1万5千円で購入。当時、20代のサラリーマンの給料が1万ほどだった)。こうしてようやく訓練が出来る体制が整ったのが3月も末のことでした。 稚内は、雪が多く、風も強く、その上犬の餌である魚も豊富で、犬ぞりのための広いコースもとれるなど訓練には最適の地でしたから、稚内市はもちろんこの事業に協力し、いち早く裏山の稚内公園を提供しました。市の協力はこれに止まることなく、訓練所の建物を用意し、犬達の食料の買いつけ、搬入、訓練にたずさわる隊員への便宜をはかるなど、細部にわたり協力を惜しみませんでした。それから、犬ぞり隊は稚内公園で約8ケ月間、樺太からの引揚者・後藤直太郎氏の調教で、厳しい訓練を受けました。犬達の勢力争いから序列ができにくい場合には、ケンカをさせて決めていくという具合に、訓練は手際よく行われていきました。 昭和31年(1956)11月8日、いよいよ出発の時を迎えました。数えきれない程の人々でごったがえす東京・晴海埠頭から観測船“宗谷”が静かに港を離れていきました。この時、宗谷に乗っていたのは観測隊員53名、船の乗組員77名、樺太犬22頭(うち2頭は子犬)、ねこ1匹とカナリアが2羽でした。南極へ到達するまでは長い道のりです。最も心配だったのは犬達の健康でした。犬達は寒さには強いが、果して赤道の暑さを乗りきれるだろうか、白瀬隊は最初の年、連れていった樺太犬のうちほとんど全てを暑さで失ったといいます。そのため犬達の部屋には、当時としてはまだ珍しい冷房が備えられたそうです。そして、隊員たちもこっそりその特典にあやかったというこの冷房のおかげで、みな無事、赤道を通過することができました。 
 東京を出てから2月以上がたった昭和32年(1957)1月18日、ついに観測船宗谷は南極大陸を見つけました。そして、前人未踏のプリンス・ハラルド海岸の一角にあるオングル島へと犬ぞりと雪上車で到達した観測隊は、そこを昭和基地と命名、その日から、宗谷と基地の間の荷物輸送が寝る間も惜しんで行われ、住居や観測のための建物が建設されていきました。そして、2月15日、宗谷は11人の越冬隊と19頭の樺太犬を残して、故国へと帰っていったのです。 残された越冬隊による活動がいよいよ本格的にはじまりました。南極の気象は、想像通り厳しいもので、食料や貴重な燃料を置いた氷原が、一夜にして切り離され流れていったり、ブリザードの時など外に置いてあった食事の材料を取りにいく係員は、1m進むのに、内地の4㎞くらいを進むのと同じだとこぼしていた程です。 ところで、基地の風下には、太い1本のワイヤーロープに2~3m毎に鎖が固定され、犬達が繋がれていました。犬舎も作られたのですが、犬達はこの南極の厳しい気候の中でも用意した犬小屋に入ることなく、ほとんど大半の犬達はついに1年間を外で頑張り通したというから驚きです。 南極は北半球とは季節が逆です。5月31日には太陽とお別れの日を迎え、太陽のない暗黒の冬が訪れました。再び太陽が顔を出したのが7月13日のことで、日一日と温かくなりいよいよ大陸奥地へと進む時がきました。しかし、雪上車は寒さのために不調でした。犬ぞりが、それに代わりました。樺太犬達は、生まれながらにしてソリをひくことに喜びを感じるらしく、朝係員の姿を見つけると、今日は自分を連れていけといわんばかりに総立ちになりワンワンと吠えるのです。指名された犬はいかにも嬉しいという風で、尾を振り得意気にソリに繋がれますが、居残り組は寂しげにいつまでも吠えています。また、ただただ白い氷原に鎖を解き放ってやっても10㎞もの距離を走り抜け、彼らはちゃんと昭和基地まで帰ってきたといいます。いよいよ調査の中でも特に重要とされる、ボツンヌーテンまでの調査旅行が行われる日がやって来ました。これには、多くの機材が必要とされるため、犬ぞりではなく雪上車が使われることとなっていました。ところが、肝心な時に頼みとする雪上車が動こうとしてくれません。結局犬ぞりで調査を行うことになりましたが、犬達は重荷と登り坂にあえぎ、5m引いては止まり、1m行っては休むという状態が続きました。マイナス30度の寒さと烈風の吹く中で、心まで凍え、凍傷にも悩まされました。時には恐ろしい氷の割れ目に落ちそうになり、ブリザードにも耐え、犬達の足の裏は割れてアカギレがひどくなり、雪の上には点々と血の滲んだ痕が残るということもありました。隊員達は余りにその姿が痛々しいので、ガーゼをあてがいバンソウコウで止めて、その上に毛の手袋をはかせたといいます。結局この旅は、435km、27日にも及びましたが、ソリをひいた15頭の犬達は、いずれも脱落することなく、見事この難事業をなし遂げたのです。日本を出発する前から、議論された犬と雪上車の問題ですが、結局は、非科学的だと言われていたにも関わらず犬の圧勝だったわけです。そして、隊員は彼らと苦楽を共にしてきたこの南極での生活の中で、ある種の確信を持つようになりました。それは、犬達にも人間と同じように意思があり、感情があり、そして自尊心があるということです。 氷山との戦いに疲れ果てて動けなくなったとき、1頭1頭の犬達に話しかけたところ、それまで動きそうになかった彼らが一斉に立ち上がり、ついに難関を乗り越えたこと。彼らはきっとこちらの気持ちに応えてくれたのでしよう。また、病気で死んでいった犬達は、調査旅行に出掛けた仲間が無事帰ってくるのを見届けた後に安心したかのように息を引き取っていきましたが、これも偶然とは思えません。死線をさまよう人の生死を決めるものは、その人の気持ちだとよくいわれますが、彼らを見ているときっと人間と同じような意思があるとしか思えなかったのです。そして、犬達にも人間と同じような気持ちや心の動きがあるとすれば、犬の能力を最も引き出すのは力ではなく、やはり心ではないでしょうか。酷寒の地で人と犬達は一体となり頑張り抜きました。南極での1年間、可愛い犬達を少しずつ失ってしまいましたが、嬉しいニュースもありました。唯一のメス犬・シロが子犬を産んだことです。結局、犬ぞりが走った距離は1年間に1,600㎞にもおよび、雪上車の走行距離1,200㎞を上回りました。 昭和32年(1957)12月、第2次南極観測隊を乗せた宗谷は確実に昭和基地へと近づいていました。基地では、1年間の事業の後片付けに追われ、人々は慌ただしく立ち働いていました。しかし、例年以上に氷が多いという状況の中、31日の大晦日から吹き出したブリザードは、氷海に突入していた宗谷の周辺の氷の状態を一変させてしまいました。3日間吹き荒れたブリザードが去った後、宗谷は氷のぎっしり詰まった20㎞四方ほどの大きな氷盤に囲まれ、全く身動きができない状態となってしまったのです。ようやく46日ぶりに氷海から脱出した時、既に宗谷は傷つき、もはや単独では再び氷海に突入することは無理でした。救助を求めたところアメリカのバートン・アイランド号が宗谷の行く先を砕氷してくれることとなり、無線で状況を知った昭和基地では、大喜びでした。しかし、喜んだのも束の間、2月10日の通信は、越冬隊にとっては信じがたい内容でした。宗谷から送られてきた通信は、とにかく先に西堀越冬隊を宗谷に収容するというものでした。しかし、誰の目からみても、交代要員がまず来てから第1次越冬隊が引き上げるのが常識です。考え抜いた挙げ句、越冬隊長だった西堀氏は宗谷から迎えに飛んでくるという飛行機・昭和号に、1名ずつ乗せて時間かせぎをし、その間に再び昭和基地に戻ることを説得しようと考えました。

 昭和号が帰ってきた宗谷では、1名ずつしか乗せてこない昭和基地の行動にピリピリしていました。実は、もう既に宗谷とバートン・アイランド号を囲む海の状況がのっぴきならぬところまで来ており、いくら力のあるバートン・アイランド号といえども、これ以上宗谷に付き合っていては脱出不可能になるという状況にまでなっていたのです。

 一方、昭和基地の方では、誰もが第2次越冬隊がやって来ることを信じて疑いはしていませんでしたが、それでも万が一に備えて、ソリ犬ではないメスのシロと子犬8匹だけは連れていこうと相談しました。そして、1度の飛行で運べる重量が厳しく制限されているにもかかわらず、隊員達は自分の荷物を犬の体重分だけ減らして飛ぶことを決意していました。結局、こうして11名の隊員は次々と宗谷へ収容され、一時的にしろ昭和基地には鎖に繋がれたままの状態で15頭の犬だけが残ることになりました。隊員達が基地を飛び立つ時、犬達は一斉に吠えました。その時、犬係だった北村隊員は、必ずまたやって来るからな・・と話しかけはしましたが、いやな胸騒ぎを覚えたといいます。しかし、この時でも、宗谷は決して第2次越冬隊を昭和基地に送り込むことを断念していたわけではありません。ぎりぎりのところまでバートン・アイランド号の力を借り、なんとか成功させたいと必死だったのです。先に到着した北村隊員は、宗谷の船上で昭和号が基地に飛ぶのが最後だと知るともう一人の犬係であった菊地隊員に相談を持ちかけました。それは、パイロットに頼んで、犬達の鎖だけでも放してやろうというものでした。しかし、意外なことに菊地隊員からは反対の意見が述べられました。それは、もし第2次越冬隊が基地に無事到着してその任務を果たそうとするとき、新しい雪上車を持っていけない現状からすると、犬ぞりはますます重要になる。第2次越冬隊が基地にいける可能性が1%でもある以上、それはできないというものでした。

 宗谷が必死に格闘している時、本国では既に置き去りにされた犬のことが報道されたらしく、連日「犬を必ず助けて」「もの言わぬ隊員を殺すな、万難を排して連れて帰れ」「犬殺し、犬を残すなら隊員達は日本へ帰るな」といった非難の電報が多く届きました。しかし、努力の甲斐なく、運命は無残にも計画を断念させたのです。「われわれは、涙をのんで、第2次越冬観測計画をここに断念せざるを得なくなった。互いに傷心をいたわりあい、帰国の途につこう」そう語った永田隊長の目からは、光るものがこぼれました。

 そして、1年後、宗谷は第3次越冬隊のメンバーを乗せ、再び南極の海を航海していました。1月14日、昭和基地に近づいた宗谷から、いよいよ無人の昭和基地に向けてヘリコプターが飛び立つ日を迎えました。飛び立った2機の大型ヘリコプターは、船の上を旋回すると、しだいに遠ざかりました。氷原は白い炎のように見えます。基地までは約163㎞、1時間あまりの飛行時間はとても長く感じられました。残されたカラフト犬達は、もちろんすべて死亡していることでしょう。無人の昭和基地にはブリザードが吹き荒れ、放置されたままの建物がどうなっているかもとても心配でした。

 14時45分、なつかしいオレンジ色の建物が見えてきました。「あっ、昭和基地だ」その時です。第1次越冬隊員でもあった大塚隊員の目に、氷の上で動く黒い物体が映りました。「犬だ」「まさか、1年間も生きているはずがない」「アザラシだろう」ヘリコプターが地上に着くのももどかしく隊員達はどっと機上から飛び下りました。みるみる近づいてくる2つの黒い点。犬と人間が、走りより接近しました。大塚隊員は犬に抱きつくと黒々ととした毛に顔をうずめました。そして、大白然との戦いに勝って生き延びた2つの命を抱きしめました。ほのかな体のぬくもりが人から犬へ、犬から人へと通い合うのがわかりました。地球に生きているもの同士の尊い命が響き合って、人と犬をしっかりと結んでいたのです。無人の昭和基地で1年もの間逞しく生き延びていたのは、タロとジロの兄弟犬でした。そして、このニュースは、すぐさま宗谷に、宗谷から日本へと伝えられました。タロとジロの元気な姿も電光写真で送られ、この感動の出来事は、日本のみならず世界中に伝えられ、人々の胸を強くゆさぶったのです。

(わたしがガイド)

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