稚内珈琲物語

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日本の歴史にコーヒーが登場するのが享保3年(1724)、稚内の発祥地は宗谷(そうや)ですが、この宗谷の地には、珈琲にまつわる物語があります。

江戸時代末期、西欧の列強は鎖国を続ける日本を横目に、新世界の発見、植民地の開発を競っていました。特に帝政ロシアは積極的な南下政策をとっており、しだいに蝦夷地(北海道)の周辺にまで及ぶようになっていました。
幕府は近海に出没するロシア船に脅威を感じ、北方警備の重要性を認識しはじめ、天明5年(1785)幕府の勘定奉行が中心となり新進気鋭の「蝦夷地調査隊」が組織され、ロシア船の動向や金銀等の産出状況、密貿易について調査を命じました。

文化2年(1805)には、ロシア使節レザノフが日本との通商関係を結ぼうと長崎にやって来ました。日本側は、これをにべもなく拒絶したのですが、あきらめきれないレザノフは、帰途「ノシャップ岬」に上陸して、この周辺の土地の様子を伺っています。宗谷の警備人は、鼻先でロシア人に上陸されたのですから度肝を抜かれたに違いありません。これがきっかけとなり、江戸幕府が、最初に西蝦夷直轄を決行したのは文化4年(1807)といわれています。この時、ただ単に寒さに強いはずという理由から、まず本州最北端の津軽藩士が、翌年には同じ東北の会津藩士が、幕府から北方警備を命じられ宗谷に派遣されてきましたが、東北とは比べ物にならないほど厳しい自然環境と野菜不足等が原因とされる水腫病(※)により多数の越冬死者をだしたといいます。幕府は、津軽・会津の藩士派遣が思わぬ悲惨な結果に終わったことから、次の年からは増毛まで南下して越冬することを認めたとのことです。

悲惨を極めた派兵も文政4年(1821)に蝦夷地の幕府直轄が廃止されたことに伴い打ち切られました。その後、安政2年(1855)に再び幕府から警護を命じられ東北から藩士が派遣されましたが、その時代にはクワエヒル(ストーブの原型となったもの)が造られたり、フランケット(毛布)が使用されるようになっていたこともあり、妻子を連れて越冬できる備えはできていたようです。

享和3年(1803)には蘭学医の廣川解が、コーヒーには水腫病に対しての薬効がある(コーヒー豆に含まれる水溶性ビタミンB複合体の一つニコチン酸)ことを発見されたことからか、水腫病の予防薬として和蘭コーヒー豆が配給されたという記述が残されています。その記述には『和蘭コーヒー豆、寒気をふせぎ湿邪を払う。黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでつき砕き二さじ程を麻の袋に入れ、熱い湯で番茶のような色にふり出し、土瓶に入れて置き冷めたようならよく温め、砂糖を入れて用いるべし』とあります。当時、コーヒーは一般に出回っておらず、庶民ではこの頃口にしたのが初めてではないかといわれています。

すなわち、最初の越冬において津軽・会津藩士が水腫病の犠牲になる以前から、薬効が知られていたことになりますが、残念ながらこの時はまだコーヒーが用いられてはいませんでした。

コーヒーを飲むことができずに亡くなっていった藩士達を悼み、その後、薬としてコーヒーを大切に飲んだであろう先人達に思いを馳せ、津軽藩士の故郷である弘前市の有志が中心となり宗谷公園に「津軽藩兵詰合の記念碑」を建立し、平成4年(1992)9月に除幕されました。 碑はコーヒー豆を型どった形をしており、碑の部分は幅1.7m、高さ1.4m、台座を含めると幅6m、高さ1.5mあります。

また、同じく宗谷公園内には、かつて点々としていた藩士や幕府関係者の墓が集められ、毎年慰霊祭が執り行われています。墓の隣には地元の俳人、岡崎古艸が詠んだ句「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」の碑がひっそりとたたずんでおり、幕末の激動期に遠く故郷を思ってこの辺境の地で果てた人々の気持ちが伝わってくるようです。

※水腫病..身体の組織の間に、リンパ液などが多量にたまった状態になる。この時代でも、アイヌ人にはほとんど見られなかったことから、北辺の地の生活に不慣れな倭人特有の病であったと伝えられる。

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